本当の所。『ここ』に戻ってくる気はなかった。
生まれ育った、僕の街。
たくさんのことが、あった。
楽しかったこと。
嬉しかったこと。
時には悔しかったり、悲しかったり…。
自分の未熟さを痛感し、無力さに打ちのめされたこともあった。
すべてが大切な、僕の記憶――。
(戻って来てしまった上、レパントにしっかり見つかった…少し厄介だな)
早々にここを立ち去るべきだと、理性が叫ぶ。
自分がここに留まって、いいことなど一つもない。
だが――
(成り行きとはいえ戻ってきた以上…しばらくゆっくり休みたいかな…)
本音が、胸の内に響く。
――トントン。
「坊っちゃん。お茶をお持ちしました」
ノックと共に、ドアの向こうから聞こえる声。
――思考が中断され、意識が現実に引き戻される。
「入れ」
寝転がっていたベッドから起き上がり、声を掛けると直ぐ様グレミオがドアを開け入室した。
「お休みでしたか?」
「別に。することないから横になってただけ」
テーブルに紅茶とお茶請けのケーキを置き、グレミオは静かに微笑む。
「成り行きとはいえ、せっかく帰郷されたのです。しばらくはゆっくり休養なさっては如何ですか?」
その言葉に僕は答えず、紅茶を一口。
心得ているのか、さして気にもせずグレミオは続ける。
「来訪者の相手がお嫌でしたら、グレミオがお引き取り頂きますよ?」
「…任せる」
「畏まりました」
苦笑混じりに言って、一礼し退出するグレミオの背を眺めながら、彼にはきっと一生かなわないだろうな…などと思った。
幼い頃から傍にいるせいか、彼にはこうして時々思考を読まれ…便利に感じる時もあれば、欝陶しく感じたりも、する。
(今は一応前者、かな)
心で呟き、とりあえずお茶を楽しむことに集中する事にした。
お茶の後、結局暇を持て余した僕は書斎から引っ張りだしてきた書物を眺めていた。
――読む、ではなく、眺める、だ。
屋敷内の書物はすべて読破し記憶している。
これは単なる暇潰しというやつだ。
(休養はいいんだけど…こう暇なのは精神衛生上よくないな…)
あまりに暇過ぎて、ぼーっとしているうちに脳が勝手に記憶を掘り返す。
思い出すのは決まってあの自分勝手な親友の事。
よくアイツに振り回されていたとか、何も相談されなかったとか、一人で悩んでいたのかとか…最後は決まって同じ思考に行き当たる。
ねえ、テッド。
いつも笑っていた君は…『幸福』だったの?
決して応えの帰ってこない問い掛けに、我知らず溜め息が漏れた。
(やっぱり暇ってダメだな…だからといって、外出しようにも、外は欝陶しいし…やはり早々に…)
そこまで考えた処で、フイにノッカーの音が聞こえた。
(…さっそくか)
旧知の中である事を利用して、まずはアレンやグレンシール辺りを寄越したか?
それとも将軍連中か…レパント本人が来た場合、グレミオには止めきれずにここまでの侵入を許すかもしれない。
投擲用の辞書辺りを用意するべきか――そんな事を考えながらページを捲る。
数分経過。
気配は玄関口から動かない、が…何やら騒がしい。
「……?」
顔を上げ、ベッドに腰掛けたままに窓を見る。
僕の部屋は玄関側に位置している為、窓から下を覗き見れば来訪者は知れるのだが…。
(グレミオの事だ。馬鹿正直に僕が誰にも会わないと言っている、とか言っただろうが…万が一居留守や気分が悪い、なんて言い訳してたら…僕が覗き見た時、来訪者と目が合ったら気まずいよな。主にグレミオがだけど)
どうしたものかと数秒の黙考後、結局好奇心には勝てず、本を閉じベッドから立ち上がった。
「今までなんで連絡一つ寄越さず…坊っちゃんがどんなに心配していたか…!」
まず聞こえたのはグレミオの声。
…人の名を引き合いに出しているが…僕が誰を心配したって?
それとも国の事かな…確かに少し気掛かりだなとは思っていたが…旅の途中、何か国の行く末でも心配するような事言ったっけ?
「だ、だから悪かったって!」
「だいたい連絡も何も、ルバロだって所在が知れなかったじゃないか!」
…………。
聞こえた声に、自分が笑みを浮かべたと自覚した。
身を乗り出して、下を覗き見る。
ああ、 熊 がいる。こんな街中に。大変だ。退治しなくちゃ。ついでに 分類項目ヒト科青二才目八つ当り馬鹿も。
こちらに気付いたらしい緑色の法衣を纏った風使いと一瞬目が合ったが君はどうでもよろしい。君に恨みは今のところ何もない。
傍に立てかけておいた棍を手に取ると同時に、僕はわざと音を立て窓を力一杯開け放った。
『!?』
下から感じる動揺の気配を無視し、窓枠を蹴り外へと身を踊らせた。
――重力。
万有引力と惑星の自転による遠心力との合力――つまりは、物と物の間にある『引かれあう力』。
宇宙に存在するすべての物に適応する法則――それは当たり前だが、人にも適応される。
重力に従い降下する僕の真下に青いのがいた。狙い違わず、こちらを見上げて茫然と立っていたソレの顔面やや上、 専門用語で眉間と呼ばれる急所 に僕の膝がクリーンヒット。
白目剥いて、悲鳴を上げる間もなく昏倒する青いのを一瞥もせず
「ル、ルバロ!?」
などと雄叫びを上げ身を引いた熊を横薙に放った棍の一撃が頭部側面、これまた 専門用語でこめかみと呼ばれる急所 にヒット、これを打ち倒した。
「退治完了。」
満足気に呟き、グレミオに視線を移す。
「グレミオ。至急レパントに連絡を。街中に熊の侵入を許すなんて、どんな警備をしているんだか…一言文句を言ってやらないとならない」
「そうですねぇ」
などと笑顔で朗らかな口調のグレミオが応えた。
こいつもイイ性格をしているよな…さすがは僕の育ての親。そういうノリのいい処が大好きだよ。口には絶対に出さないけど。
「瞬殺かい…相変わらずだな、ルバロ」
苦笑混じりに聞こえた声に、ちらりと視線を移す。
「居たの」
「うわ冷て。そりゃひでぇんじゃねぇ?」
「気付いて一緒に打ち倒した方が良かったのかい?」
「絶対に御免です。」
冗談に本気で冷や汗をかくシーナに、少しだけ僕ってどんな目で見られているんだろうと疑問が過った。
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