「あら、まあ」
「……」
僕――ササライ・カテドラーレは、自身の目の前で驚きの呟きを洩らしつつも、のほほんと笑っている人物をじっくりと見た。
長めの茶色の髪はそのまま流していて、動くたびにさらさらと揺れる。青い神官服をきっちりと着込み、薄い緑の瞳が無邪気にこちらを見つめ返していた。
幼い顔立ちに華奢な体。背はあまり高くはないが、自身の立場から鑑みるに身長は関係ない――と思う――頬に手を沿え、小さく首を傾げている。仕草は女性のようだが、これでもれっきとした男である。
そう――男だ。体は。
それは長年見慣れた自分の――間違いなく、僕、ササライ・カテドラーレの体だった。
「…ユニシェル?」
「はい」
僕の呼びかけに、目の前にいる自分が、おっとりと返事を、した。
「…目の前に、僕がいる」
「はい、わたくしの目の前にも、わたくしがおりますわ」
再びおっとりと答える目の前の自分を呆然と眺める。自分の声は、こんなだったか? そういえば、自分の聞いている声は、実は他人が聞くと違う、などと言う話をどこかで…。
「いや、そうではなく」
「え? 違いませんわ。わたくしがおります」
関係のない事柄をつらつらと考え始める自分に、雑念を払うように軽く首を振る――これは現実逃避だ――そんな事をしている場合ではない。
何を勘違いしたか、ユニシェルがなにやら反論めいた事を言っているが、これはひとまず無視する。大切なのは状況の整理だ。
(状況。そう、状況だ。何故、自分の目の前に自分がいるのか。これは一体? というか、目の前に僕がいて、しかしどうやら中身はユニシェルで…)
「……」
視線を自分の体へと向ける。
薄い桃色のドレス。裾が床に花のように広がっている――座り込んでいるせいだ――そう大きくはないが、ふっくらと曲線を描く柔らかそうな胸元に、肩から流れるゆるくウェーブがかった金糸の髪が流れていた。
手を見る。白くほっそりとした手。ある意味、最近見慣れている手ではあるが、決して自分の手ではない。
「まあ、ササライ様。わたくしの手がどうかしまして?」
ユニシェルが再び声を掛けてくる――そうか、やはりユニシェルの手か。でも僕は今、自分の手を見ているはずなのに…ユニシェルの手、なのか。
「…ユニシェル」
「はい、ササライ様」
「君は、今の状況を説明出来るかい?」
「状況、ですか?」
混乱真っ只中である自分とは打って変わって、ユニシェルはやはりおっとりと首を傾げて考え込む。しばらく思考に没頭し――といっても、数分だが――やがて顔を上げた時には晴れ晴れとした笑顔だった。
「わたくし、ササライ様とお茶を飲もうと思いましたの」
「ユニシェル、僕は状況の説明を求めているのだけれど」
自分の頬が、微かに引き攣ったのを感じた。軽く睨みつけてみるも、やはりユニシェルはのんびりと笑っている。
「はい、状況説明です。こういう時は、順序良くお話した方がいいと、お父様がおっしゃっていました」
彼女の言葉に、とりあえず口を閉ざす。彼女の言うお父様――ナッシュ・ラトキエが、さまざまな危機的状況を冷静に判断・対処する能力に長けているのを知っていた。視線で先を促すと、こっくり頷いて彼女は続けた。
「お天気が良かったので、ぜひお庭でお茶をと思い、頑張って用意しましたの。先日、レナ様が良い茶葉を分けて下さって。そのお茶、南の方のものでして」
「ユニシェル。すまないがその辺りは割愛してくれ」
放っておくと茶葉の――関係の話が果てしなく長くなりそうな気がしたので、口を挟む。途端にユニシェルが頬を膨らまし、不機嫌になる。顔は自分のものなので、背筋に悪寒が走る――慌てて付け足した。
「状況の整理が先。解決したら、お茶も話も付き合うから」
ぱっと笑顔になる。自分は笑うとこんな表情になるのか…いや、こんな風には笑った事はない。たぶん。
「約束でしてよ、ササライ様」
「わかったから、続きを」
「はい」
改めて、説明(?)を続ける。
「ええと、それで…そうですわ、用意が出来ましたので、ササライ様を呼びに参りましたの」
「…そうだね。来たね」
頷き、同意する。午後になって、執務室でいつものように書類をしていた所にユニシェルが訪れた――これは最近の日課だ――しっかりと覚えている。
「わたくし、ササライ様をお誘いに来ましたのに、ササライ様は書類があるからとお断りに…ヒドイですわ」
「…それはヒドイ事、なのかい? 今は執務時間で…」
「まあ。お茶の時間くらい取るべきですわ。ササライ様は、仕事に没頭すると周りが見えなくなってしまわれますもの。休憩を取った方が効率も上がりますとレナ様もおっしゃっていました」
…どうも、最近のユニシェルは僕の副官のレナや彼女の義父であるナッシュに悪影響を受けて…いや。彼女は初めからこんな感じだった。これは悪影響ではなく、面白がって増長させているあの二人が…まあ、純粋に休まない自分を心配してくれているのもあるのだろうが。
「わたくし、ササライ様を休憩させようと思いまして。再度お茶にお誘いしましたの。言ってもダメでしたので、実力行使、ですわ」
楽しそうに語るユニシェルの言葉に、やっと自分の中で記憶が合致した。そう、実力行使だ――それを実力行使と言っていいのかは微妙だが――彼女は、こともあろうか執務机によじ登って僕の腕を引っ張り始めたのだ。
机を迂回し、横にくればいいものを…何故、机によじ登ったのだろうか? 理解不能だ。
いくら自分が標準をちょっと下回る体型であるとはいえ、一応男だ。ただでさえ華奢なユニシェルに引っ張られたからとて、どうこう出来るものではない。
利き手を取られたままでは仕事が出来ないし、どうしたものかと逡巡する間に――ユニシェルが、手を滑らせた。
頭から転げ落ちそうになった彼女を支えようと咄嗟に手を伸ばし――むしろ、身体能力の高くない自分が咄嗟に動けた事はすごいと思う――腕を掴んだまではよかった。
椅子を蹴倒し立ち上がり、必死に手を伸ばし――掴んだものの、勢いが付いてしまっていた体はそのままもつれ合うように机を超え――結果、二人して転がり落ちてしまった。
これまた咄嗟にユニシェルを引き寄せ庇った――自分の体がクッションになるように互いの体を入れ替える事に成功したのは僥倖だ。自分に反射神経が備わっていた事に驚きつつも、まあ、なんだ…身長が足らず、完全に庇うには至らず…結果、互いに頭をぶつけてしまったわけだが。僕に至っては、ユニシェルに額を頭突かれ、床に後頭部を強打する事となった。お陰で先ほどから頭が痛い。
頭が揺れ、痛みを堪えながら起き上がれば目の前には自分――混乱するのも無理はない。と思う。
状況は理解した。否、状況しか理解出来なかった、と言った方が適切かもしれない。結局、互いに中身が入れ替わっているらしい、という現状しかわからない。原因、解決策がさっぱりだ。
「…これは、病気…には、該当しない…怪我? になる、のか?」
「まあ、そういえば頭がズキズキいたしますわね」
独り言のように呟いた言葉に、ユニシェルがどこか見当違いな相槌を打った。
ぐらぐらする頭を抱えながら、どうしたものかと考える――と、そこに控えめなノックの音が割って入った。
「ササライ様。レナです」
――瞬間、固まった。体もさることながら、思考まで停止する。
この状況…見られるのは非常にまずい。気がする。
しかし、結論を出す前にこんな時だけ素早いユニシェルが「はい、ただいま」などと答えながら扉を開けてしまった!
「ユニシェル嬢、また執務室にいらっしゃっていたのですか」
「はい。わたくし、ササライ様をお茶に誘いに参りましたの」
笑顔で答える僕――の姿をしたユニシェル――にレナが、動きを停めた。
レナがぎぎぎぎぎぃ…と、ぎこちない動きで、僕の姿――くどいが、中身はユニシェルだ――からユニシェルの姿――中身は僕――の方へと視線を移す。
その後、同じような動きで再び僕の姿に視線を戻す。
「…ササライ様?」
僕の姿に、確認するように名を呼ぶ。しかし、ユニシェルはきょとんとレナを見つめ返すだけだ。
僕は慌てて立ち上がるとレナを部屋に引っ張り込み、ドアを閉めた。
「ユニシェル嬢?」
「はい?」
訝しげに僕を見ながら呟くレナに、ユニシェルが律儀に返事をする。再び、レナが停まった。
「…そんな事が、起こりうるもの…なのですか?」
訊ねるレナに、実際にこうして起きている、と返す。正直、僕が一番信じられない。
「とにかく、外には洩らさないように。今日は執務室には誰も寄越さないでくれ」
「…医者は、お呼びしますか?」
控えめに提案してくるレナに、どう答えたものかと逡巡する。医者にどうにか出来る問題なのだろうか…。ふと、そんな疑問が過ぎる。
「お父様ではだめでしょうか?」
事の重大さがわかっているのかいないのか…この期に及んでユニシェルはのほほんと呟いた。
「ユニシェル嬢。ナッシュは医者ではありません。呼んでどうするのですか」
どこか呆れたように言い聞かせるレナに、ユニシェルはぱちぱちと瞬きをする。
「あら、お父様はたくさんの事をご存知ですもの。きっと教えて下さいますわ」
信頼の笑み。その笑みに、何故かちくり、と胸の奥が疼く。
(転げ落ちた時にぶつけたのだろうか…?)
疑問が過ぎるが、今はそれ所ではないので一先ず置いておく。
「如何しますか、ササライ様」
「とりあえず、医者はいい。ナッシュを呼んで。今日中にダメそうなら、医者の手配を」
「…医者ではなく、ナッシュを呼ぶのですか?」
確認してくるレナに、はっきりと頷く。
「こんな病気や怪我、事例があるとは思えないしね。まだナッシュの方が何かしらの解決策を浮ぶかもしれない。それに、ユニシェルもこれでは屋敷に戻るに戻れないだろう。神殿に泊まるにしても、連絡をしておいた方がいい」
「承知しました」
その他、簡単な雑務にスケジュール調整――本日は外に出る用事があった――を頼み、くれぐれも口外しないように言い含めた後、レナを退室させた。
「さて、ナッシュが来るまで書類を少し片付けて…」
机に向かおうと振り返り――絶句。
そういえば、先ほど机を乗り越えて転げ落ちたのだったと思い出す。机の上にあった書類が、見事に散乱してしまっていた。
「あら、まあ」
「……」
片付けなければならないのは、わかる。わかるのだが…正直、僕は整理整頓が不得手だった。むしろ、余計惨状を悪化させてしまう傾向にあると最近わかった。
仕方ない。ナッシュがきたらまずはこの惨状を片付けてもらって…と考えていると、ユニシェルがのんびり片付け始めた。
「ユニシェル? その書類は門外不出のもので、君には閲覧資格が…」
「ご安心下さいませ。書類の中身は見ません。集めて揃えるだけですわ。散らかったままではお茶も飲めませんもの」
「…この状況で、お茶?」
ユニシェルの言葉に驚く。思った以上に、今の状況を理解していない。理解していないというか、気付いていない? まずい。どう言ったものかと考える。
「…ユニシェル。お茶は止めておきなさい」
「まあ、何故ですの? わたくし、ササライ様とお茶をしようと思ってきましたのに」
頬を膨らませ、抗議するユニシェルに一瞬たじろぐ。いや、でもここはしっかりと言わなければならない。困る。非常に、困る。
「ダメだよ、ユニシェル。その…後で、困る、だろう」
「? 何がですの?」
きょとんと見つめてくる瞳に、躊躇しつつ…仕方なく、はっきりと言った。
「…お手洗い、どうする気だい?」
「まあ、わたくしちゃんとお手洗いまでの道順、覚えていましてよ」
「そうではなく」
覚えた覚えたと言いつつ、君が迷わずに辿り着けるのはこの執務室とラトキエ家の屋敷への往復の道順だけじゃないか。思ったが、今それを言っても話が違う方向に行くので、言葉を飲み込み、代わりに違う言葉を口にする。
「今。君は、僕の体なんだよ? それで…お手洗い、どうする気だい?」
語尾は先ほどと同じ言葉を繰り返す。そう、今の僕たちは体が入れ替わっている。そうなると、その…非常に、困る事態が満載だ。
やっと理解したのか、微かに驚いたような表情をした後、ユニシェルは考え込むように首を傾げ――再び顔を上げた。何故か両の拳を胸の前で握り締めながら、言った。
「頑張ります」
「何を。」
反射的に、言葉が出た。
「わたくし、お手洗いも入浴も頑張ります」
「そうではなく!!!」
思わず叫んだ僕に罪はない。きっと。むしろ叫ぶ以外に僕に何が出来るだろうか? 先ほど頭を強打した時以上に頭痛がした。
だめだ。やはり医者も呼ぼう。早急にどうにかしてもらわないと、取り返しの付かない事になる。絶対になる。
「ユニシェル。僕は医者を呼んでくるから、君はここから出ないで。いいね?」
「え? お父様をお待ちするのでは?」
「早急に現状を打破したいのでね。ナッシュが来たらここで待つように言って。他の者が来た場合は出なくていい」
言ってドアに向かいさっさと歩き出す。
「ですが、ササライ様?」
ユニシェルが、何かを言い募りながら付いてこようとする。ドアノブに手を掛けたまま、首だけ振り返る。
「ユニシェルはここで待機だ。部屋から出ないで」
強い口調で言う。ユニシェルの表情が翳る。何か言おうと口を開こうとするのを無視してドアに向き直った、瞬間。
「失礼します」
「――った!?」
「きゃっ」
声と同時に、ドアが勢い良く開かれ――ドアのまん前にいた為、ドアに押される。頭を強かに打ち、そのままぐらりと体が傾く。後ろにいたユニシェルが小さく悲鳴を上げ、後頭部に再び衝撃。ぶつかった音と床に転がった音が続いた。
「あっ…」
ノックもせずにドアを開いた人物――ナッシュ・ラトキエが、引き攣った呻きを洩らした。
「~~~っ、ナッシュ・ラトキエ!」
「申し訳ありません!」
打ち付けた後頭部を手で押さえ、声を荒げる。ナッシュは慌てて謝罪を口にしながら手を差し出した。その手に捕まろうとして、はたと停まる。
伸ばした腕――青い神官服の袖が視界に映る。手の中指には、ヒクサク様より賜った守護者の眼と呼ばれる指輪があった。
「…戻っ、た…?」
まじまじと両手を見る。確かに自分の手である事を確認し、安堵すると同時に慌てて視線を下に向ける。ぶつけた額に手を沿え、僕に寄りかかるようにユニシェルが、いた。
「ユニシェル!?」
助け起こし、そのまま抱き寄せまじまじと見つめる。金糸の髪が倒れた時に乱れ、体に絡まるように広がっている。透き通るような蒼の瞳が涙を湛え潤んでいた。
「…ユニシェル?」
そっと彼女の頬に手を沿え、顔を上げさせ確かめるように呼び掛ける。きょとんとしたすぐ後、戸惑うように瞳が揺れ、頬に朱が差した。
彼女の温か味が増すのが触れた頬から手に伝わる。しばらく視線を彷徨わせた後、ユニシェルはそっと瞳を閉じた。
「……っ!?」
一連の行動を間近で見ていた僕は、思わず見とれてしまう。というか、何故、目を閉じる? 早鐘のように心音が高まる。この状況は、まるで…。
「――ごほんっ」
頭上から咳払い。ユニシェルの体がびくんっと跳ねる。僕も驚き、慌てて顔を上げる。開いたままのドアを背に、ナッシュがいた。
「……」
「……」
「……」
気まずい空気が、流れる。
しばらくの沈黙をはさみ――ナッシュが、口を開いた。
「…そういった事は、鍵を掛けてどうぞ。」
「――っ! ちょ、ちが…っ!」
とんでもない事を言い出す。僕はただ、戻ったのかを確かめようとしただけであって…っ!
「当人同士の問題ですし、義理の保護者とはいえ俺に許可を求める事ではないでしょう。どうぞ、お好きに」
こちらの話を全く聞かず、言いたいことだけ言って、ナッシュはさっと身を翻す。そのまま退室しようとし――途中で留まり、ちらりと視線だけをこちらに向ける。
「ただ、昼間から…しかも執務室でコトに及ぶのは自重なさって下さい」
「――っ!!?!?!?!」
「では、失礼します」
さらっと物凄い発言を残し、しっかりとドアを閉めてナッシュは退室した。
何を言えばいいのか、どうするべきなのか――言うべき事はあるはずなのに、一つも口を付いて出ないまま、呆然とナッシュを見送ってしまった――。
【了】
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
携帯サイトの拍手にて御礼文として公開。
ササライのお相手であるユニシェル嬢は、こんなにのほほんとしていますが一応継承者の一人です。
何故ナッシュの娘なのか、どういった経緯でササライとくっつくのかは長篇をお待ちください。